記憶してないことが懐かしい
ある日、初対面の人と話す機会があった。
でも(この人とは二度と会う事もないんだろうな。)みたいな出会い方だったのでその人のことは記憶しようとせずただ「それっきりの初対面の人と話した。」だけの出来事だった。
ところがその次の日また偶然その人と出会ったのである。
昨日の今日なのに記憶しようとしてなかったためか数年ぶりに会ったかのような懐かしさを感じた。
なんか脳がふわふわしてちょっと気持ちよかった。
日常の神隠し
今日は銀行に行く用事があったので昨日カバンに通帳を入れた。
忘れないようにしっかり入れた。
一応銀行に行く前に会社でカバンの中身を確認すると無い。
あの入れたはずの通帳がどのポケットを開けど無い。
これには焦った。同僚には「きっと家に忘れたんでしょ。どんくさいな〜」とどんくさいというレッテルを貼られる始末。
そんな筈は無い。絶対入れた。
銀行にも行けず仕舞いでトボトボと家に帰ると家にも通帳が無い。
さらに焦る。
色んな引き出しを開けたけど見つからずもう一度カバンを見ると奴は素知らぬ顔で居た。
寧ろ無かった方が良かった。
銀行は明日行きます。
恥ずかしながら可愛いものが可愛い
最近すみっコぐらしが可愛くて仕方がない。
ちょっとした小学生の女の子より好きな自信がある。
今はすみっコぐらしのデカいぬいぐるみが欲しい。
でも恥ずかしいのだ。
成人男性にとってはあまり人に言えないレベルの恥ずかしさである。
春にははるばる奈良まですみっコぐらし展をこっそり見てきたがその時のグッズでも終始悩んで何も買えなかった。
すみっコぐらしのビールジョッキとか出して(買って良いんだよ)感を出して欲しい。
サンエックスさんどうぞご検討下さい。
育ちがいいことをまざまざと見せ付けられる
食べ物に関して焦りを抑えることができない方なので人と食事に行くと
(しまった!)
と思うことが度々ある。
鍋は非常にそれがよく出ていて育ちのいい人は鍋から取り皿に取る時に数口分の量を取る。
言わば小さな鍋だ。
バランスよく具材を取り、小さな鍋を作り出しているのだ。(そしてそれを焦ることなく食べている。)
何とも気品のある所作であり惚れ惚れしてしまう。
一方僕は一口分だけを取り皿にとってすぐさま食べている。(普段の食事で添えている手と同じ感覚。)
小さな鍋を作る心の余裕は何処から来たのだろうか。
あの小さな鍋を見るたび育ちの良さを見せつけられているようで是非とも会得したいと思うのだが目の前の大きい鍋にテンションが上がってその瞬間で忘れている。
まいった。
美味しいからね。仕方ないか。